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【中日对照】村芝居/社戏(鲁迅)
发表时间:2008-1-24 15:01:00 点击:  [网友评论 ] [字号: ]

村芝居
魯迅
井上紅梅訳

 

 わたしが支那(しな)の芝居を見たのは過去二十年間にたった二度だけであった。前の十年は絶対に見なかった。また見ようという意思も機会もなかったから、その二度はどちらも後の十年のうちで、しかもとうとう何の意味をも見出さずに出て来たのだ。
 第一囘は民国(みんごく)元年、わたしが初めて北京(ペキン)へ行った時、ある友達から「ここの芝居は一番いいから、以て世相を見てはどうかナ」と言われて、「芝居見物も面白かろう、まして北京(ペキン)だもの」と大(おおい)に興じてすぐに何やら園とかいう処へ行ったら、もう世話物が始まっていて、小屋の外には太鼓の響が洩れていた。わたしどもは木戸口を入ると、赤いものだの、青いものだの、幾つも眼の前にキラめいて、舞台の下にたくさんの頭を見たが、よく気をつけて見なおすと、まん中にまだ幾つかの空席があったから、そこへ行って坐ろうとした時、わたしに向って、何か言った者があった。最初はガンガンという銅鑼(どら)の音で、よく聞えなかったが、注意して聞くと、「人が来るから、そこへ坐ってはいけない」というのだ。
 わたしどもはぜひなく後ろへ引返して来ると、辮子(べんつ)のぴかぴか光った男が、わたしどもの側(そば)へ来て一つの場所を指さした。その場所は細長い腰掛で幅はわたしの上腿(じょうたい)の四分の三くらい狭く、高さは下腿(かたい)の三分の二よりも高い。まるで拷問の道具に好く似ているので、わたしは思わずぞっとして退(しりぞ)いた。
 二三歩あるくと、友達が、「君、どうしたんだえ」とわたしのあとから跟(つ)いて来た。
「なぜ行(ゆ)くのだ。返辞(へんじ)をしたまえな」
「いやどうも失敬、なんだかドンドンガンガンして、君のいうことはサッパリ聞えないよ」
 あとで考えてみると、全く変なことで、この芝居はあまり好くなかったかもしれない。でなければわたしは舞台の下にじっとしていられない質(たち)なんだろう。
 第二囘はいつのことだか忘れたが、とにかく湖北(こほく)水災義捐(ぎえん)金を募集して譚叫天(たんきょうてん)がまだ生きている時分だ。その募集の方法は、二元(えん)の切符を買って第一舞台で芝居見物をするので、そこに出る役者は皆名人で、小叫天(しょうきょうてん)もその中にいた。
 わたしが切符を一枚買ったのは本来、人の勧めに依った責め塞げであったが、それでも誰か、叫天の芝居は見ておくものだ、といったことがあったらしく、前年のドンドンガンガンの災難も忘れてつい第一舞台へ行って見る気になった。まあ半分は、高い価(あたい)を出した大事の切符を使えば気が済むのでもあった。
 わたしは叫天の出る幕が遅いと聞いていたので、第一舞台は新式の劇場だから座席を争うようなことはあるまいと、わざと九時まで時を過してやっとこさと出て行った。ところが、その日も相変らず人が一杯で、立っているのも六ツかしいくらい。わたしは仕方なしに後方の人込(ひとご)みに揉まれて舞台を見ると、ふけおやまが歌を唱(うた)っていた。その女形(おんながた)は口の辺に火のついた紙捻(こより)を二本刺し、側に一人の邏卒(らそつ)が立っていた。わたしは散々考えた末、これは目蓮(もくれん)の母親らしいな、と想った。あとで一人の和尚が出たから気がついたので、さはいいながら、この役者が誰であるかを知らなかった。そこでわたしの左側に押されて小さくなっていた肥えた紳士に訊いてみると、彼はさげすむような目付でわたしを一目見て、「雲甫(こううんほ)」と答えた。わたしはひどく極(きま)りが悪くなって顔がほてって来た。
 同時に頭の中で、もう決して人に訊くもんじゃないと思った。そこで子役を見ても、女形(おやま)を見ても立役(たてやく)を見ても、どういう質(たち)の役者が何を唱っているのか知らずに、大勢が入り乱れたり、二三人が打合ったり、そんなことを見ている間に九時から十時になった。十時から十一時半になった。十一時半から十二時になった。――そうして叫天はとうとう出て来なかった。
 わたしは今まで何事に限らずこんなに我慢して待ったことはなかった。いわんやわたしの側にいた紳士はハーハー息をはずませて肥えた身体(からだ)を持てあましていた、舞台の上のどんちゃん、どんちゃんの囃(はやし)や、紅(あか)や緑のまぶしいキラめき。その時十二時だ。たちまちわたしはとてもこんな処にいられないと思った。同時にわたしは機械的に身を捻(ねじ)って力任せに外の方へと押出した。後ろは一杯の人で通る路(みち)もなかったが、大概その弾力性に富んだ肥えた紳士が、早くもわたしの抜け出したあとに、彼の右半身を突込んだので、わたしは自然に押され押されて木戸口に出てしまった。
 街は観客の車以外にはほとんど一人も通行人がなかった。それでも木戸口には十何人か頭を昂(あ)げて芝居の番附(ばんづけ)を見ていた。外に一かたまりの人が、何にも見ずに立っていた。わたしは何にも知らずに来たことを我れながら悔んだが、結局芝居の題目さえも忘れてしまった。
 わたしが実際いい芝居を見たのは、それよりずっと前の事だ。
 その時おそらくまだ十一二にもならなかったろう。わたしども魯鎮(ろちん)の習慣は、およそ誰でも嫁に入(い)ったむすめは、まだ当主にならないうちは、夏の間たいていは里方に行って暮すのである。その時分わたしの祖母はまだ達者であったが、母もいくらか家事の手伝いをしていたので、夏も長く帰っていることは出来なかった。ぜひなく墓掃除をすましたあとで、二三日の暇を見て抜け出して行(ゆ)くのであった。わたしは母親に跟いて外(がい)祖母の家(うち)に遊びに行ったことがある。そこは平橋村(へいきょうそん)と言って、ある海岸から余り遠くもないごくごく偏僻(へんぴ)な河添いの小村で、戸数がやっと三十くらいで、みな田を植えたり、魚を取ったりそういう暮しをしている間に、ただ雑貨屋が一軒あるだけであったが、わたしに取っては極楽世界であった。ここへ来れば優待されるのみか「秩秩斯干幽幽南山(チーチースーハンユウユウナンシャン)」などというものを唸らなくともいいからである。
 わたしと一緒に遊ぶいろいろの小さな友達が遠客が来たので、彼等もまた父母の許しを得て、仕事を控えてわたしのお相手をした。小村の中の一家の客もほとんど大概芝居のハネたあとの女を見に行くことを考えていた。しかし叫天はそこにもやッぱりいなかった……
 さはさりながら夜の空気は非常に爽(さわや)かで、全く「人の心脾(しんひ)に沁む」という言葉通りで、わたしが北京(ペキン)に来てからこの様ないい空気に遇ったのは、この芝居帰りの外(ほか)にはなかったようにも覚えた。
 この一夜(ひとよ)はとりもなおさず、わたしが支那芝居に告別をした一夜で、もう一度そんなことに遇おうとも思わず、たまたま芝居小屋の前を過ぎても、わたしどもとはまるきり関係がなく、精神がすでに一つは天の南にあり、一つは地の北にあった。
 けれどもその二三日前にわたしは思いがけなくある日本の本を読んだ。惜しいことには本の名前も著者の名前も忘れてしまったが、とにかく支那芝居に関することで、その中の一篇をかいつまんでいうと、支那芝居は無闇に叩き、無暗に叫び、無暗に踊り、観客の頭を昏乱(こんらん)させるから、劇場向きではないが、野広(のびろ)いところで遠くの方から見ていると、自然に面白味がわかって来ると書いてあった。わたしはその時そう思った。これはいつもわたしの胸の中にあってまだ言い出したことのない言葉だと。だからわたしはいい芝居は野外で見られるものと、しっかり覚えていた。北京(ペキン)へ行ってからも芝居小屋に二度入ったが、やッぱりあの時の影響を受けたのかもしれない。何しろこれは公共のものではないか。
 わたしどもは年頃もおつかつだったが順序から言えば一番下の弟だ。外(ほか)**兹摔饽可悉握撙ⅳ搿4澶袱澶Δ辖酝栅且患窑扦ⅳ盲俊¥饯Δ悉いΔ猡韦韦铯郡筏嗓猡嫌堰_だ。喧嘩でもして年上の者を打つと一村の者は老人も若い者も、目上という言葉を想い出せない。彼等は百人中、九十九人は字を知らなかった。
 わたしどもの日々の仕事は大概蚯蚓(みみず)を掘って、それを針金につけ、河添いに掛けて蝦(えび)を釣るのだ。蝦は水の世界の馬鹿者で遠慮会釈もなしに二つの鋏で鈎(はり)の尖(さき)を捧げて口の中に入れる。だから半日もたたぬうちに大きな丼に一杯ほど取れる。その蝦はいつもわたしが食べることになるのだ。その次は皆と一緒に牛を飼うのだがこれは高等動物のせいかもしれない。黄牛(おうぎゅう)も水牛も空をつかってわたしを馬鹿にする。わたしは側へゆくことが出来ないで遠くの方で立っていると小さな友達はわたしが「秩秩斯干(チーチースーハン)」が読めることなど頓著(とんじゃく)なしに寄ってたかって囃(はや)し立てる。
 わたしがそこにいて一番楽しみにしたのは、趙荘(ちょうそう)へ行って芝居を見ることだ。趙荘は比較的大きな村で平橋村から五里離れていた。
 平橋村は村が小さいので、自分で芝居を打つことが出来ないから、毎年(まいねん)趙荘にいくらかお金を出して一緒に芝居を打つのである。その時分わたしは、彼等が何のために毎年(まいねん)芝居を催すか、ということについて一向無頓著(むとんじゃく)であったが、今考えてみると、あれはたぶん春祭(はるまつり)で里神楽(さとかぐら)(社戯(ツエシー))であったのだ。
 とにかくわたしの十一二歳のこの一年のその日はみるみるうちに到著した。ところがその年は本当に残念だった。早く船を頼んでおけばよかったのに、平橋村にはたった一つ大きな船があるだけで、それは朝出て晩**ⅳ虢煌C関で、決してよそ事には使えなかった。そのほか小船はあるにはあるが、使い途(みち)にならない。隣の村に人をやって訊いてみたが、もうみんな約束済であいてる船は一つもない。外祖母は大層腹を立て、なぜ早く注文しておかないのだ、と家(うち)の者を叱り飛ばした。母親は外祖母を撫(なだ)めて、「わたしども魯鎮は、小さな村の割合に芝居を多く見ているのですよ。一遍ぐらいどうだっていいじゃありませんか」と押止(おしとど)めた、だが、わたしは泣きだしそうになった。母親は勢限(せいかぎ)りわたしをたしなめて、「決していやな顔をしちゃいけませんよ。おばあさんが怒ると大変です」と言って、それから誰(たれ)とも一緒に行(ゆ)くことを許さなかった。「おばあさんに心配させるものではありません」とまたあとで言った。
 それはそれでとにかくおさまったが、午後になるとわたしの友達は皆行ってしまった。芝居はもう開(あ)いているのだ。わたしは遠音(とおね)に囃(はやし)を聞いて、「今頃は友達が舞台の下で、豆乳を買って食べてるな」と想った。
 その日は一日、釣りにも行(ゆ)かず物もあまり食べないで母親を困らせた。晩飯の時分には外祖母もとうとう気がついて、この子がすねるのも無理はないよ。あの人達はあんまり無作法だ。お客に対する道を知らないといって嘆息した。
 飯を食ってしまうと、芝居を見に行った子供達は皆帰って来た、そうして面白そうにきょうの芝居の話をした。ただわたしだけは口もきかずに沈んでいると、彼等は皆嘆息して気の毒がった。
 雙喜(そうき)という子供は中でも賢い方であったが、たちまち何か想い出して、「大船ならあれがあるぜ。八叔(はちおじ)の通い船(ぶね)は、帰って来ているじゃないか」
 十幾人のほかの子供はこの言葉に引かされて勇み立ち、あの船で一緒に行こう、と皆立上った。わたしはようやく元気づいた。けれど外祖母は子供だけじゃ安心が出来ないと言った。母親も、「誰(た)れか一人大人を附けてやりましょう」と言ったが、大人は昼の仕事に労(つ)かれているので、夜頼むわけにはゆかない。どうしようかと考えている中(うち)に、雙喜はまた何かいい事を想いついたようで大声上げて言った。
「わたしが引受けます。船は大きいし、迅(じん)ちゃんはおとなしいし、わたしどもは泳ぎがうまいし、こんなら大丈夫です」
 まったくそうだ。この十幾人の子供は実際一人だって、鴨の仲間でない者はない。その上二三人は大潮を乗切った者さえある。
 外祖母も母親もようやく安心して今はもう何とも言わずにただ笑っていた。わたしどもは一斉に立上っておめき叫んで門を出た。
 わたしの重苦しい心は、急に軽く晴れやかになった。身体ものびのびして大きくなったように思われた。門を出ると月下の平橋(へいきょう)には白い苫船(とまぶね)が繋(もや)っていた。みんなは船に跳び込んだ。雙喜は前の棹を引抜き、阿發(あはつ)は後ろの棹を抜いた。年弱(としよわ)の子供は皆わたしに附いて中の間に坐った。年上の子供は船尾に聚(あつま)っていた。母親は送って来て「気をつけておいでよ」と言った時には、もう船は出ていた。橋石にぶつかって二三尺退(しりぞ)いたが、すぐまた前に進んで橋を通り抜けた。そこで二梃(ちょう)の櫓(ろ)をつけて、一梃に二人がかかって一里行(ゆ)くと交替した。笑う者もあった、喋舌(しゃべ)る者もあった。その声は水を切って行(ゆ)く音と入り交った。左右はみな青々とした豆麦の畑をとおす河中に、われわれは飛ぶが如く趙荘さして進んだ。
 両岸の豆麦と河底の水草から発散する薫(かおり)は、水気の中に入りまじって面(おもて)を撲(う)って吹きつけた。月の色はもうろうとしてこの水気の中に漂っていた。薄黒いデコボコの連山は、さながら勇躍せる鉄の獣(けだもの)の背にも似て、あとへあとへと行(ゆ)くようにも見えた。それでもわたしは船脚(ふなあし)がのろくさくさえ思われた。彼等は四度(よたび)手を換えた時、ようやく趙荘がぼんやり見え出して、歌声もどうやら聞えて来た。幾つかの火は舞台の明りか、それともまた漁りの火か。
 あの声はたぶん横笛だろう。宛転悠揚(えんてんゆうよう)としてわたしの心を押し沈め、我れを忘れていると、それは豆麦や藻草の薫(かおり)の夜気(やき)の中に、散りひろがってゆくようにも覚えた。
 その火は近づいた。果して漁り火だった。わたしが今し方見たのは趙荘ではなかった。それは一叢(ひとむれ)の松林で、わたしは去年遊びに来て知っていたが、今も壊れた石馬(せきば)が河端(かわばた)にのめって、一つの石羊(せきよう)が草の中にうずくまっていた。この林を越すと、船はぐるりと廻ってまた港に入(い)り、そこで初めて趙荘が見えた。
 何よりも先(さ)きに眼に入(い)ったのは村の端(はず)れの河添いの空地に突立っている一つの舞台だ。ぼんやりとした遠くの方の月夜の中で、空間(くうかん)の諸物がほとんどハッキリ分界していなかった。わたしは画(え)の中の仙境がここへ出現したのかと思った。この時船はいっそう早く走って、まもなく舞台の人が見え、赤い物や青い物が動いて舞台の側の河の中に真黒(まっくろ)に見えるのは、見物人の船の苫(とま)だ。
「前の方に空間(あきま)がないから俺達は遠くの方で見よう」と阿發が言った。
 船はここまで来ると、ゆっくり漕ぎ出して、だんだん側に近づいてみると果たして空間(あきま)がなかった。みんなが棹をおろしたところは、舞台の正面からはずいぶん離れていた。正直に言うと、わたしどもの白苫(しろとま)の船は黒苫(くろとま)の船の側へ行(ゆ)くのはいやなんだ。まして空間(あきま)がないのだから。
 停船の間際に舞台の上を見ると黒い長※[#「髟/胡」、239-1]の男が、四つの旗(はた)を背に挿して、長槍をしごき、腕を剥き出した大勢の男と戦いの最中であった。
「あれは名高い荒事師(あらごとし)だ。蜻蛉(とんぼ)返りの四十八手が皆出来るんだよ。昼間幾度も出た」と雙喜は言った。
 わたしどもは皆船頭(みよし)に立って戦争を見ていたが、その荒事師は決して蜻蛉返りをしなかった。ただ腕を剥き出した男が四五人、逆蜻蛉を打つと皆引込んでしまった。続いて一人の女形(おやま)が出てイーイーアーアーと唱った。雙喜はまた言った。
「夜は見物が少いから、荒事師は怠けているのだ。誰だってしんそこの腕前を無駄に見せるのはいやだからね」
 全くそうだった。その時舞台の下にはあまり多くの人を見なかった。田舎者はあすの仕事があるから、夜になると我慢が出来ず皆睡(ねむ)りに行った。ちらばら立っているのはこの村と隣の村の閑人であった。黒い苫船の中に立っているのはいうまでもなく村の物持の家族であった。けれど彼等は芝居を見ているのではなかった。大抵はそこでお菓子や果物や瓜などを食べていた。だから平たく言えば見物が無いと言ってもいいくらいで、雙喜が無駄だといったのも無理はない。
 わたしは格別、逆蜻蛉を見たいとも思わなかった。わたしの見たいのは、役者が白い布(きれ)をかぶって一つの蛇のような蛇の精を両手に捧げているのと、もう一つは黄いろい著物(きもの)を著(き)た虎のような虎が躍り出すことである。わたしはそれをいつまでも待っていたが遂に見ることが出来なかった。女形(おやま)が引込むと、今度は皺だらけの若旦那が出て来た。わたしはもう退屈して桂生(けいせい)に吩咐(いいつ)け豆乳を買いにやった。桂生はすぐ返って来た。
「ありません。豆乳屋の聾(つんぼ)は帰ってしまいました。昼間はあったんですがね、わたしは二杯食べました。仕方がない。お湯を一杯貰って来て上げましょうか」
 わたしはお湯も飲まずになお突立って芝居を見ていた。それも何を見たとハッキリ言うことが出来ないが、役者の顔がだんだん変槓(へんてこ)のものになって、五官の働きがあるのだか、ないのだか、何もかも一緒くたになって区別がつかなかった。小さな子供は勝手に自分の話をしていた。するとたちまち一人の赤い薄ぎぬを著た道化役が舞台の柱に縛られて胡麻塩※[#「髟/胡」、240-11]の者から鞭で打たれた。みんなはようやく元気づいて笑い出した。これはその一晩の中で、一番いい幕だった。そうこうしているうちに、ふけおやまが出た。
 ふけおやまはわたしの大嫌いなもので、何よりも坐って歌を唱うのがいやだ。この時ほかの見物人も皆いやな顔をしていたから、あの人達の考えもわたしと同じであることを知った。そのおやまは初めしずしず歩いて唱っていたが、しまいにとうとう真中の椅子の上に坐った。わたしはうんざりした。雙喜や他の人達もぶつぶつ言いだした。わたしは我慢してしばらく見ているとその役者は手を挙げたので立って行(ゆ)くのか、と思ったところが、いやはや、やっぱりもとの処で長々しく唱い続けた。船の中の者はみんな溜息を吐(つ)いたり欠伸(あくび)をしたり。雙喜は終(つい)に堪えかね、「こいつはあしたまで続きそうだぜ。もう帰ろうじゃないか」というと、みんなはすぐに賛成して、勇ましく立上がり、三四人は船尾へ行って棹を抜き、幾丈(いくじょう)か後すざりして船を廻し、ふけおやまを罵りながら、松林に向って進んだ。
 月はまだ残っていた。見物した時間はあまり長くもないらしかった。趙荘を出ると月の光はいっそうあざやかになった。ふりかえって見ると舞台は燈火の中に漂渺(ひょうびょう)として、一つの仙山楼閣(かいやぐら)を形成し、来がけにここから眺めたものと同様に赤い霞が覆いかぶさり、耳のあたりに吹き寄せる横笛は極めて悠長であった。わたしはふけおやまがもう引込んだにちがいないとは思ったが、まさかもう一度見せてくれとも言えなかった。
 まもなく松林は後ろの方になった。船あしは決して遅くもなかったが、あたりは黒く濃く、夜更であることが知れた。彼等は芝居を罵り笑いながら船を漕いだ。すると舳(じく)に突当る水の音が一際(ひときわ)あざやかに、船はさながら一つの大白魚(たいはくぎょ)が一群の子供を背負うて浪の中に突入するように見えた。夜どおし魚を取っている爺さん連(れん)は船を停めてこちらを眺めて思わず喝采した。
 平橋までは一里もあるらしかった。漕ぎ手も皆つかれた。無暗に力を出した上になんにも食わないからだ。その時桂生はいいことに気がついた。羅漢豆(らかんまめ)が今出盛りだぜ。火があるからちょっと失敬して煮て食おう。みんなは賛成した。すぐ船を岸へつけておかに上(あが)った。田の中には真黒に光ったものがあった。それは今実を結んだ羅漢豆であった。
「あ、あ、阿發、この辺はお前の家(うち)の地面だぜ。あの辺が六一爺(ろくいちおやじ)の地処だ。俺達はそいつを取ってやろう」
 真先におかへ上(あが)っていた雙喜は言った。われわれは皆おかへ上(あが)った。阿發は跳ね上(あが)って
「ちょっと待ってくれ、乃公(おれ)に見せてくれ」
 彼は行ったり来たりしてさぐってみたが、急に身を起して
「乃公の家(うち)のがいいよ。大きいからね」
 この声をきくと皆はすぐに阿發の家(うち)の豆畑へ入った。めいめい一抱えずつもぎ取って船の中へ投げ込んだ。雙喜はあんまり多く取って阿發のお袋に叱られるといけないと思ったので、皆を六一爺さんの畑の方へやってまた一抱えずつ偸(ぬす)ませた。
 年上の子供はまたぶらぶら船を漕ぎ出した。他の者は船室の後ろで火を起した。年弱(としよわ)の者はわたしと一緒に豆を剥いた。まもなく豆は煮えた。みんなは船をやりっ放しにして真中に集まって、撮(つま)んで食った。食ってしまうとまた船を出した。道具を片附けて豆殻(まめがら)は皆河の中へ棄てた。何の痕跡も残さなかったが、雙喜は八おじさん(船の持主)の塩と薪を使ったことを心配した。あのおやじはこまかいからね、きっと嗅ぎつけて怒鳴って来るにちがいない。
 みんなそこでいろんな意見を吐いたが、結局、構うもんか、もしあいつが何とか言ったら、去年あいつが陸(おか)へ上(あが)って櫨(はぜ)の枯木を持って行ったからそれを返せと言ってやるんだ。そうして眼の前で、八の禿頭を囃してやるんだ。
「家(うち)へ帰れば大丈夫だよ。乃公が保証する」
 と雙喜は船頭(みよし)に立って叫んだ。わたしはみよしの方を見ると、前はもう平橋であった。橋の根元に人が一人立っていたがそれは母親であった。雙喜はわたしの母親に向って何か言ったが、わたしも前艙(いちのま)の方へ出た。船は平橋に来て停った。われわれはごたごた陸(おか)へ上(あが)った。母親は少し不機嫌で、十二時過ぎても帰らないからどうしたのかと思ったよ、とは言ったが、それでも元気よくみんなをよんで、炒米(いりごめ)を食わせた。みんなはもうおやつを食べているし、眠くはあるし、早く帰って寝たかったので、すぐに散り散りに別れた。
 次の日、わたしは昼頃になってようやく起きた。八おじさんの塩薪事件は何の問題も引起さなかった。午後はやはり蝦釣りに行った。
「雙喜、てめえ達はきのう乃公の豆を偸んだろう。いけねえなあ、たくさん偸んだ上に、あんなに踏み荒しては」
 わたしは首を挙げて見ると、六一爺さんは、小船に棹さして豆売からの帰りがけらしく、船の中にまだたくさんの豆が残っていた。
「ええ、わたしどもは御馳走になったよ。初めはお前のとこのものは、要らなかったんだが、ね、御覧、お前はわたしの蝦を嚇(おど)かして逃してしまったよ」と雙喜は言った。
「御馳走か――ちげえねえ」六一爺さんはわたしを見ながら櫂をとめて笑った。
「迅ちゃん、きのうの芝居は面白かったかね」
 わたしは頷いて「ええ」と答えた。
「豆はうまかったかね」
「ああ大変うまかったよ」
 六一爺さんは非常に感激して、親指をおこして、得意になって喋舌った。
「さすがは大どころで育った学者だけあって、目が高い。乃公の豆は一粒撰(よ)りなんだぜ。田舎者にゃわからねえ。全く乃公の豆は、ほかのもんとは比べ物にならねえ。乃公はきょう幾らか、おばさんのところへ持ってってやるんだ」
 彼はそこで櫂を押して過ぎ去った。
 わたしは母親に喚(よ)ばれて晩飯を食い**ⅳ盲郡椤⒆可悉未螭嗓螭证辘酥罅ⅳ皮瘟_漢豆があった。これは六一爺さんがわたしの母とわたしに食べさせるために贈ってくれたもので、彼は母親に向って、わたしのことを箆棒(べらぼう)にほめていたそうだ。
「年はいかないが見上げたもんだ。いまにきっと状元(じょうげん)に中(あた)るよ。おばさん、おめえ様の福分は乃公が保証しておく」
 わたしは豆を食べたが、どうしてもゆうべの豆のような旨みは無かった。
 まったく、それからずっと今まで、わたしは本当にあの晩のようないい豆は二度と食べたことはなかった。――あの晩のようないい芝居も二度と見たことはなかった。

(一九二二年十月)

 

 

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社戏⑴


  我在倒数上去的二十年中,只看过两回中国戏,前十年是绝不看,因为没有看戏的意思和机会,那两回全在后十年,然而都没有看出什么来就走了。
  第一回是民国元年我初到北京的时候,当时一个朋友对我说,北京戏最好,你不去见见世面么?我想,看戏是有味的,而况在北京呢。于是都兴致勃勃的跑到什么园,戏文已经开场了,在外面也早听到冬冬地响。我们挨进门,几个红的绿的在我的眼前一闪烁,便又看见戏台下满是许多头,再定神四面看,却见中间也还有几个空座,,挤过去要坐时,又有人对我发议论,我因为耳朵已经喤的响着了,用了心,才听到他是说“有人,不行!”
  我们退到后面,一个辫子很光的却来领我们到了侧面,指出一个地位来。这所谓地位者,原来是一条长凳,然而他那坐板比我的上腿要狭到四分之三,他的脚比我的下腿要长过三分之二。我先是没有爬上去的勇气,接着便联想到私刑拷打的刑具,不由的毛骨悚然的走出了。
  走了许多路,忽听得我的朋友的声音道,“究竟怎的?”我回过脸去,原来他也被我带出来了。他很诧异的说,“怎么总是走,不答应?”我说,“朋友,对不起,我耳朵只在冬冬喤喤的响,并没有听到你的话。”
  后来我每一想到,便很以为奇怪,似乎这戏太不好,——否则便是我近来在戏台下不适于生存了。
  第二回忘记了那一年,总之是募集湖北水灾捐而谭叫天⑵还没有死。捐法是两元钱买一张戏票,可以到第一舞台去看戏,扮演的多是名角,其一就是小叫天。我买了一张票,本是对于劝募人聊以塞责的,然而似乎又有好事家乘机对我说了些叫天不可不看的****要了。我于是忘了前几年的冬冬喤喤之灾,竟到第一舞台去了,但大约一半也因为重价购来的宝票,总得使用了才舒服。我打听得叫天出台是迟的,而第一舞台却是新式构造,用不着争座位,便放了心,延宕到九点钟才去,谁料照例,人都满了,连立足也难,我只得挤在远处的人丛中看一个老旦在台上唱。那老旦嘴边插着两个点火的纸捻子,旁边有一个鬼卒,我费尽思量,才疑心他或者是目连⑶的母亲,因为后来又出来了一个和尚。然而我又不知道那名角是谁,就去问挤小在我的左边的一位胖绅士。他很看不起似的斜瞥了我一眼,说道,“龚云甫⑷!”我深愧浅陋而且粗疏,脸上一热,同时脑里也制出了决不再问的定章,于是看小旦唱,看花旦唱,看老生唱,看不知什么角色唱,看一大班人乱打,看两三个人互打,从九点多到十点,从十点到十一点,从十一点到十一点半,从十一点半到十二点,——然而叫天竟还没有来。
  我向来没有这样忍耐的等待过什么事物,而况这身边的胖绅士的吁吁的喘气,这台上的冬冬喤喤的敲打,红红绿绿的晃荡,加之以十二点,忽而使我省误到在这里不适于生存了。我同时便机械的拧转身子,用力往外只一挤,觉得背后便已满满的,大约那弹性的胖绅士早在我的空处胖开了他的右半身了。我后无回路,自然挤而又挤2,终于出了大门。街上除了专等看客的车辆之外,几乎没有什么行人了,大门口却还有十几个人昂着头看戏目,别有一堆人站着并不看什么,我想:他们大概是看散戏之后出来的女人们的,而叫天却还没有来……
  然而夜气很清爽,真所谓“沁人心脾”,我在北京遇着这样的好空气,仿佛这是第一遭了。
  这一夜,就是我对于中国戏告了别的一夜,此后再没有想到他,即使偶而经过戏园,我们也漠不相关,精神上早已一在天之南一在地之北了。
  但是前几天,我忽在无意之中看到一本日本文的书,可惜忘记了书名和著者,总之是关于中国戏的。其中有一篇,大意仿佛说,中国戏是大敲,大叫,大跳,使看客头昏脑眩,很不适于剧场,但若在野外散漫的所在,远远的看起来,也自有他的风致。我当时觉着这正是说了在我意中而未曾想到的话,因为我确记得在野外看过很好的戏,到北京以后的连进两回戏园去,也许还是受了那时的影响哩。可惜我不知道怎么一来,竟将书名忘却了。
  至于我看好戏的时候,却实在已经是“远哉遥遥”的了,其时恐怕我还不过十一二岁。我们鲁镇的习惯,本来是凡有出嫁的女儿,倘自己还未当家,夏间便大抵回到母家去消夏。那时我的祖母虽然还康建,但母亲也已分担了些家务,所以夏期便不能多日的归省了,只得在扫墓完毕之后,抽空去住几天,这时我便每年跟了我的母亲住在外祖母的家里。那地方叫平桥村,是一个离海边不远,极偏僻的,临河的小村庄;住户不满三十家,都种田,打鱼,只有一家很小的杂货店。但在我是乐土:因为我在这里不但得到优待,又可以免念“秩秩斯干幽幽南山”⑸了。
  和我一同玩的是许多小朋友,因为有了远客,他们也都从父母那里得了减少工作的许可,伴我来游戏。在小村里,一家的客,几乎也就是公共的。我们年纪都相仿,但论起行辈来,却至少是叔子,有几个还是太公,因为他们合村都同姓,是本家。然而我们是朋友,即使偶而吵闹起来,打了太公,一村的老老少少,也决没有一个会想出“犯上”这两个字来,而他们也百分之九十九不识字。
  我们每天的事情大概是掘蚯蚓,掘来穿在铜丝做的小钩上,伏在河沿上去钓虾。虾是水世界里的呆子,决不惮用了自己的两个钳捧着钩尖送到嘴里去的,所以不半天便可以钓到一大碗。这虾照例是归我吃的。其次便是一同去放牛,但或者因为高等动物了的缘故罢,黄牛水牛都欺生,敢于欺侮我,因此我也总不敢走近身,只好远远地跟着,站着。这时候,小朋友们便不再原谅我会读“秩秩斯干”,却全都嘲笑起来了。
  至于我在那里所第一盼望的,却在到赵庄去看戏。赵庄是离平桥村五里的较大的村庄;平桥村太小,自己演不起戏,每年总付给赵庄多少钱,算作合做的。当时我并不想到他们为什么年年要演戏。现在想,那或者是春赛,是社戏⑹了。
  就在我十一二岁时候的这一年,这日期也看看等到了。不料这一年真可惜,在早上就叫不到船。平桥村只有一只早出晚归的航船是大船,决没有留用的道理。其余的都是小船,不合用;央人到邻村去问,也没有,早都给别人定下了。外祖母很气恼,怪家里的人不早定,絮叨起来。母亲便宽慰伊,说我们鲁镇的戏比小村里的好得多,一年看几回,今天就算了。只有我急得要哭,母亲却竭力的嘱咐我,说万不能装模装样,怕又招外祖母生气,又不准和别人一同去,说是怕外祖母要担心。
  总之,是完了。到下午,我的朋友都去了,戏已经开场了,我似乎听到锣鼓的声音,而且知道他们在戏台下买豆浆喝。
  这一天我不钓虾,东西也少吃。母亲很为难,没有法子想。到晚饭时候,外祖母也终于觉察了,并且说我应当不高兴,他们太怠慢,是待客的礼数里从来没有的。吃饭之后,看过戏的少年们也都聚拢来了,高高兴兴的来讲戏。只有我不开口;他们都叹息而且表同情。忽然间,一个最聪明的双喜大悟似的提议了,他说,“大船?八叔的航船不是回来了么?”十几个别的少年也大悟,立刻撺掇起来,说可以坐了这航船和我一同去。我高兴了。然而外祖母又怕都是孩子,不可靠;母亲又说是若叫大人一同去,他们白天全有工作,要他熬夜,是不合情理的。在这迟疑之中,双喜可又看出底细来了,便又大声的说道,“我写包票!船又大;迅哥儿向来不乱跑;我们又都是识水性的!”
  诚然!这十多个少年,委实没有一个不会凫水的,而且两三个还是弄潮的好手。
  外祖母和母亲也相信,便不再驳回,都微笑了。我们立刻一哄的出了门。
  我的很重的心忽而轻松了,身体也似乎舒展到说不出的大。一出门,便望见月下的平桥内泊着一只白篷的航船,大家跳下船,双喜拔前篙,阿发拔后篙,年幼的都陪我坐在舱中,较大的聚在船尾。母亲送出来吩咐“要小心”的时候,我们已经点开船,在桥石上一磕,退后几尺,即又上前出了桥。于是架起两支橹,一支两人,一里一换,有说笑的,有嚷的,夹着潺潺的船头激水的声音,在左右都是碧绿的豆麦田地的河流中,飞一般径向赵庄前进了。
  两岸的豆麦和河底的水草所发散出来的清香,夹杂在水气中扑面的吹来;月色便朦胧在这水气里。淡黑的起伏的连山,仿佛是踊跃的铁的兽脊似的,都远远的向船尾跑去了,但我却还以为船慢。他们换了四回手,渐望见依稀的赵庄,而且似乎听到歌吹了,还有几点火,料想便是戏台,但或者也许是渔火。
  那声音大概是横笛,宛转,悠扬,使我的心也沉静,然而又自失起来,觉得要和他弥散在含着豆麦蕴藻之香的夜气里。
  那火接近了,果然是渔火;我才记得先前望见的也不是赵庄。那是正对船头的一丛松柏林,我去年也曾经去游玩过,还看见破的石马倒在地下,一个石羊蹲在草里呢。过了那林,船便弯进了叉港,于是赵庄便真在眼前了。
  最惹眼的是屹立在庄外临河的空地上的一座戏台,模胡在远处的月夜中,和空间几乎分不出界限,我疑心画上见过的仙境,就在这里出现了。这时船走得更快,不多时,在台上显出人物来,红红绿绿的动,近台的河里一望乌黑的是看戏的人家的船篷。
  “近台没有什么空了,我们远远的看罢。”阿发说。
  这时船慢了,不久就到,果然近不得台旁,大家只能下了篙,比那正对戏台的神棚还要远。其实我们这白篷的航船,本也不愿意和乌篷的船在一处,而况没有空地呢……
  在停船的匆忙中,看见台上有一个黑的长胡子的背上插着四张旗,捏着长枪,和一群赤膊的人正打仗。双喜说,那就是有名的铁头老生,能连翻八十四个筋斗,他日里亲自数过的。
  我们便都挤在船头上看打仗,但那铁头老生却又并不翻筋斗,只有几个赤膊的人翻,翻了一阵,都进去了,接着走出一个小旦来,咿咿呀呀的唱。双喜说,“晚上看客少,铁头老生也懈了,谁肯显本领给白地看呢?”我相信这话对,因为其时台下已经不很有人,乡下人为了明天的工作,熬不得夜,早都睡觉去了,疏疏朗朗的站着的不过是几十个本村和邻村的闲汉。乌篷船里的那些土财主的家眷固然在,然而他们也不在乎看戏,多半是专到戏台下来吃糕饼水果和瓜子的。所以简直可以算白地。
  然而我的意思却也并不在乎看翻筋斗。我最愿意看的是一个人蒙了白布,两手在头上捧着一支棒似的蛇头的蛇精,其次是套了黄布衣跳老虎。但是等了许多时都不见,小旦虽然进去了,立刻又出来了一个很老的小生。我有些疲倦了,托桂生买豆浆去。他去了一刻,回来说,“没有。卖豆浆的聋子也回去了。日里倒有,我还喝了两碗呢。现在去舀一瓢水来给你喝罢。”
  我不喝水,支撑着仍然看,也说不出见了些什么,只觉得戏子的脸都渐渐的有些稀奇了,那五官渐不明显,似乎融成一片的再没有什么高低。年纪小的几个多打呵欠了,大的也各管自己谈话。忽而一个红衫的小丑被绑在台柱子上,给一个花白胡子的用马鞭打起来了,大家才又振作精神的笑着看。在这一夜里,我以为这实在要算是最好的一折。
  然而老旦终于出台了。老旦本来是我所最怕的东西,尤其是怕他坐下了唱。这时候,看见大家也都很扫兴,才知道他们的意见是和我一致的。那老旦当初还只是踱来踱去的唱,后来竟在中间的一把交椅上坐下了。我很担心;双喜他们却就破口喃喃的骂。我忍耐的等着,许多工夫,只见那老旦将手一抬,我以为就要站起来了,不料他却又慢慢的放下在原地方,仍旧唱。全船里几个人不住的吁气,其余的也打起哈欠来。双喜终于熬不住了,说道,怕他会唱到天明还不完,还是我们走的好罢。大家立刻都赞成,和开船时候一样踊跃,三四人径奔船尾,拔了篙,点退几丈,回转船头,驾起橹,骂着老旦,又向那松柏林前进了。
  月还没有落,仿佛看戏也并不很久似的,而一离赵庄,月光又显得格外的皎洁。回望戏台在灯火光中,却又如初来未到时候一般,又漂渺得像一座仙山楼阁,满被红霞罩着了。吹到耳边来的又是横笛,很悠扬;我疑心老旦已经进去了,但也不好意思说再回去看。
  不多久,松柏林早在船后了,船行也并不慢,但周围的黑暗只是浓,可知已经到了深夜。他们一面议论着戏子,或骂,或笑,一面加紧的摇船。这一次船头的激水声更其响亮了,那航船,就像一条大白鱼背着一群孩子在浪花里蹿,连夜渔的几个老渔父,也停了艇子看着喝采起来。
  离平桥村还有一里模样,船行却慢了,摇船的都说很疲乏,因为太用力,而且许久没有东西吃。这回想出来的是桂生,说是罗汉豆⑺正旺相,柴火又现成,我们可以偷一点来煮吃。大家都赞成,立刻近岸停了船;岸上的田里,乌油油的都是结实的罗汉豆。
  “阿阿,阿发,这边是你家的,这边是老六一家的,我们偷那一边的呢?”双喜先跳下去了,在岸上说。
  我们也都跳上岸。阿发一面跳,一面说道,“且慢,让我来看一看罢,”他于是往来的摸了一回,直起身来说道,“偷我们的罢,我们的大得多呢。”一声答应,大家便散开在阿发家的豆田里,各摘了一大捧,抛入船舱中。双喜以为再多偷,倘给阿发的娘知道是要哭骂的,于是各人便到六一公公的田里又各偷了一大捧。
  我们中间几个年长的仍然慢慢的摇着船,几个到后舱去生火,年幼的和我都剥豆。不久豆熟了,便任凭航船浮在水面上,都围起来用手撮着吃。吃完豆,又开船,一面洗器具,豆荚豆壳全抛在河水里,什么痕迹也没有了。双喜所虑的是用了八公公船上的盐和柴,这老头子很细心,一定要知道,会骂的。然而大家议论之后,归结是不怕。他如果骂,我们便要他归还去年在岸边拾去的一枝枯桕树,而且当面叫他“八癞子”。
  “都回来了!那里会错。我原说过写包票的!”双喜在船头上忽而大声的说。
  我向船头一望,前面已经是平桥。桥脚上站着一个人,却是我的母亲,双喜便是对伊说着话。我走出前舱去,船也就进了平桥了,停了船,我们纷纷都上岸。母亲颇有些生气,说是过了三更了,怎么回来得这样迟,但也就高兴了,笑着邀大家去吃炒米。
  大家都说已经吃了点心,又渴睡,不如及早睡的好,各自回去了。
  第二天,我向午才起来,并没有听到什么关系八公公盐柴事件的纠葛,下午仍然去钓虾。
  “双喜,你们这班小鬼,昨天偷了我的豆了罢?又不肯好好的摘,蹋坏了不少。”我抬头看时,是六一公公棹着小船,卖了豆回来了,船肚里还有剩下的一堆豆。
  “是的。我们请客。我们当初还不要你的呢。你看,你把我的虾吓跑了!”双喜说。
  六一公公看见我,便停了楫,笑道,“请客?——这是应该的。”于是对我说,“迅哥儿,昨天的戏可好么?”
  我点一点头,说道,“好。”
  “豆可中吃呢?”
  我又点一点头,说道,“很好。”
  不料六一公公竟非常感激起来,将大拇指一翘,得意的说道,“这真是大市镇里出来的读过书的人才识货!我的豆种是粒粒挑选过的,乡下人不识好歹,还说我的豆比不上别人的呢。我今天也要送些给我们的姑奶奶尝尝去……”他于是打着楫子过去了。
  待到母亲叫我回去吃晚饭的时候,桌上便有一大碗煮熟了的罗汉豆,就是六一公公送给母亲和我吃的。听说他还对母亲极口夸奖我,说“小小年纪便有见识,将来一定要中状元。姑奶奶,你的福气是可以写包票的了。”但我吃了豆,却并没有昨夜的豆那么好。
  真的,一直到现在,我实在再没有吃到那夜似的好豆,——也不再看到那夜似的好戏了。
                            一九二二年十月。

  □注释

  ⑴本篇最初发表于一九二二年十二月上海《小说月报》第十三卷第十二号。
  ⑵谭叫天(1847—1917):即谭鑫培,又称小叫天,当时的京剧演员,擅长老生戏。
  ⑶目连:释迦牟尼的弟子。据《盂兰盆经》说,目连的母亲因生前违犯佛教戒律,堕入地狱,他曾入地狱救母。《目连救母》一剧,旧时在民间很流行。
  ⑷龚云甫(1862—1932):当时的京剧演员,擅长老旦戏。
  ⑸“秩秩斯干幽幽南山”:语见《诗经·小雅·斯干》。据汉代郑玄注:“秩秩,流行也;干,涧也;幽幽,深远也。”
  ⑹社戏:“社”原指土地神或土地庙。在绍兴,社是一种区域名称,社戏就是社中每年所演的“年规戏”。
  ⑺罗汉豆:即蚕豆。
  〔《呐喊》〕

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